@phdthesis{oai:sucra.repo.nii.ac.jp:00010244, author = {角山, 朋子}, month = {}, note = {284p, 【序論】 1. 研究の目的と背景   1.1. 研究目的・・・・・1   1.2. 研究背景・・・・・2 2. 研究の意義・・・・・3 3. 先行研究の問題点   3.1. ウィーン工房研究・・・・・4   3.2. オーストリア工作連盟研究・・・・・6   3.3. 「世紀末ウィーン」後の研究・・・・・7   3.4. 日本におけるオーストリア・デザイン史研究・・・・・7   3.5. 先行研究の課題・・・・・8 4. 研究の方法、構成   4.1. 研究の方法・・・・・9   4.2. 考察対象      4.2.1. 用語について・・・・・9      4.2.2. 考察対象・・・・・10   4.3. 研究の構成・・・・・13 【本論】 1. オーストリア近代デザイン運動の胎動   1.1. 英国アーツ・アンド・クラフツ運動:20世紀初頭までの変遷・・・・・16   1.2. ウィーンへのアーツ・アンド・クラフツ運動の伝播      1.2.1. ヨーロッパ対六の装飾芸術運動:アール・ヌーヴォー、ユーゲントシュティール・・・・・24      1.2.2. ウィーンのける諸外国の動向の欠落・・・・・26      1.2.3. アルトゥール・スカラによるイギリス工芸の導入・・・・・28      1.2.4. ウィーン美術工芸協会の反発・・・・・32   1.3 第一期デザイン改革:アイテルベルガ―と帝国立オーストリア芸術産業博物館      1.3.1. ハプスブルク君主国の工業化と経済成長・・・・・36      1.3.2. アイデルベルガ―による芸術産業博物館設立の献言・・・・・38      1.3.3. 帝国立オーストリア芸術産業博物館の開館・・・・・40   1.4 第二期デザイン改革:ウィーン分離派による芸術刷新      1.4.1. 「7人クラブ」:近代芸術運動の萌芽・・・・・48      1.4.2. ウィーン造形芸術家協会の内部抗争:ウィーン分離派結成の経緯・・・・・51      1.4.3. ウィーン分離派の芸術理念・・・・・56      1.4.4. 「一つのオーストリア」を目指して・・・・・59 2. ウィーン工房誕生の布石:ウィーン分離派によるクンストゲヴェルベシューレ改革・・・・・67   2.1. 1900年以前のクンストゲヴェルベシューレにおける工芸教育の変遷      2.1.1. 1867年制定の学校規則・・・・・68      2.1.2. 1872年の改訂版学校規程及び教育計画:予備課程の強化・・・・・69      2.1.3. 1877年の再改定版学校規程及び教育計画:芸術教育の重視・・・・・71      2.1.4. 1888年の改訂版学校規則:模写と様式学習の継続・・・・・73   2.2. 芸術産業博物館の近代化:クンストゲヴェルベシューレ改革の素地      2.2.1. スカラとウィーン美術工芸協会の主導権争い・・・・・75      2.2.2. 1898年制定の芸術産業博物館規約:創造的工芸家の養成・・・・・76      2.2.3. 文化教育省の文化政策:「芸術評議会」の開設・・・・・78      2.2.4. 博物館理事会でのオットー・ヴァグナーの学校改革に関わる提言・・・・・79      2.2.5. スカラの現実的構想・・・・・82   2.3. ウィーン分離派によるクンストゲヴェルベシューレ改革      2.3.1. 教師陣の交替・・・・・85      2.3.2. 授業の課題と改善・・・・・86 3. ウィーン工房の設立構想とその初期理念:1990-1906年   3.1. 設立までの出来事      3.1.1. ヘルマン・バールによる「芸術と工芸を結ぶ組織」の提案・・・・・89      3.1.2. 第8回ウィーン分離派展(1990)の成果          3.1.2.1. 幾何学的ユーゲントシュティールの確立と成功・・・・・90          3.1.2.2. アシュビーとギルド・オブ・ハンディクラフトからの影響・・・・・94          3.1.2.3. マッキントッシュとの関係・・・・・96      3.1.3. 設立前年の動き:ヴェルンドルファーの貢献・・・・・99   3.2. 組織形態      3.2.1. 1903年5月の設立規約、登記簿登録、及び最初の営業許可書・・・・・104      3.2.2. 『ウィーン工房作業綱領』(1905)に書かれた理念と理想・・・・・105      3.2.3. 「協同組合」という選択・・・・・108   3.3. 幾何学的ユーゲントシュティール      3.3.1. 装飾の抑制・・・・・112      3.3.2. ビーダマイヤー・・・・・115      3.3.3. 高級工芸品としてのウィーン工房製品・・・・・116 4. 理想と経営のはざまで:1907年以降とウィーン工房の企業化とデザイン特性の変化   4.1. ウィーン工房の経営体質(1903-1932)      4.1.1. アーツ・アンド・クラフツ運動と経済性:イギリス、ドイツにおける実践・・・・・118      4.1.2. 資金提供者兼経営責任者の変遷・・・・・120      4.1.3. 企業形態の変遷          4.1.3.1. 子会社、合名会社の設立・・・・・121          4.1.3.2. 「有限会社ウィーン工房」への移行(1914):有限会社化とヴェルンドルファーの離脱・・・・・122          4.1.3.3. 庇護から合理化へ(1914-1932):プリマヴェーシ、グノーマンの経営時代・・・・・125   4.2. 1907年の経営危機とモーザーの離脱      4.2.1. ヴェルンドルファーへの資金依存・・・・・128      4.2.2. ディータ・モーザーへの援助要請をめぐるモーザーとヴェルンドルファーの対立・・・・・130      4.2.3. モーザーの主張          4.2.3.1. 個人資産に依拠する経営への批判・・・・・132          4.2.3.2. 方針転換の提言・・・・・132          4.2.3.3. 顧客側の問題・・・・・133          4.2.3.4. ホフマンとの関係・・・・・134   4.3. 1907年の大転換:デザインにみる経営戦略      4.3.1. 中心デザイナーの変化:ホフマン=モーザー体制から複数メンバーの活躍へ・・・・・135      4.3.2. 新たなデザイン様式:装飾の復活          4.3.2.1. 背景・・・・・137          4.3.2.2. 金属工芸・・・・・139          4.3.2.3. グラフィック作品・・・・・141      4.3.3. 事業の拡大          4.3.3.1. 販売店、支店・・・・・142          4.3.3.2. 外部企業との連携:製陶会社「ウィーン陶器」・・・・・145          4.3.3.3. 「キャバレー・フレーダーマウス」(1907):新設部門への活力・・・・・146 5. 「ウィーン工房」のブランド確立へ:帝都の美術工芸を担う   5.1. ウィーン分離派の決裂(1905):芸術様式と商業性をめぐる立場の相違      5.1.1. クリムト・グループの離脱・・・・・150      5.1.2. 対立要因:ギャラリー・ミートケ、ウィーン工房への批判・・・・・152      5.1.3. 妥協案の頓挫とクリムト・グループの声明・・・・・153   5.2. <クンストシャウ1908>にみる「総合芸術」の新たな展開      5.2.1. 展覧会の構想・・・・・155      5.2.2. 公的支援の獲得・・・・・157      5.2.3. 希薄な政治性・・・・・158      5.2.4. ウィーン工房展示室に現れた商業的要素          5.2.4.1. 展覧会の会場構成・・・・・161          5.2.4.2. クリムトの作品販売意欲・・・・・163          5.2.4.3. ウィーン工房展示室・・・・・165   5.3. 「国家的理由から」:オーストリア工作連盟の設立(1912)      5.3.1. ウィーンの産業振興部局:工作連盟以前の産業促進会議・・・・・170      5.3.2. ドイツ工作連盟(1907)への参加・・・・・171      5.3.3. オーストリア・グループの独立          5.3.3.1. 活動概要・・・・・174          5.3.3.2. 多民族国家のアイデンティティ・・・・・175          5.3.3.3. 春季オーストリア工芸展(1912)にみるオーストリア工芸の多様性・・・・・178          5.3.3.4. 大規模な出発・・・・・181   5.4. 「ウィーンらしさ」への立脚:1910年代前半の産業活性化の理想と現実      5.4.1. オーストリア工作連盟の活動目的・地域・・・・・184      5.4.2. 国民経済への視点・・・・・185      5.4.3. 理想からの乖離・・・・・187      5.4.4. アドルフ・ロースの工作連盟批判・・・・・190   5.5 オーストリアのアイデンティティとは:ケルンでの工作連盟展(1914)      5.5.1. オーストリア・グループの団結・・・・・193      5.5.2. オーストリア・パヴィリオンの独自性          5.5.2.1. 一般展示室、ウィーン工房展示室、オーストリアの装飾文化の披露・・・・・195          5.5.2.2. オーストリア・パヴィリオンの建築的特徴・・・・・197      5.5.3. オーストリア・パヴィリオンの成果・・・・・199 6. 第一次世界大戦下のウィーン工房:女性メンバーの躍進と国家協力   6.1. 「芸術家工房」(1916)における美的工芸品製作      6.1.1. 工作連盟運動の失速:ウィーン工房の主導的立場の継続・・・・・201      6.1.2. 「芸術家工房」開設:低迷する生産と経営の救済策・・・・・202      6.1.3. 芸術家工房の主要女性メンバー          6.1.3.1. フェリーツェ・リックス・・・・・205          6.1.3.2. マリア・リカルツ・・・・・208          6.1.3.3. マティルデ・フレーグル・・・・・209          6.1.3.4. ヒルデ・イェッサー・・・・・210      6.1.4. 陶器作品の新傾向   6.2. モード領域の成長:テキスタイル部門、モード部門での女性メンバーの活動      6.2.1. 1900年代のテキスタイル生産・・・・・214      6.2.2. 1910年代の女性メンバーによるテキスタイルデザインとポール・ポワレへの影響・・・・・215      6.2.3. モード部門の女性メンバーの製作領域、作風          6.2.3.1. マリア・リカルツによるモード画・・・・・219          6.2.3.2. 戦時下のモード画集:『モード・ウィーン』(1914-1915)、『婦人の生活』(1916)・・・・・221   6.3. 女性デザイナー養成拠点:ホフマンとチゼックによるデザイン教育の意義      6.3.1. 応用芸術教育と女性・・・・・224      6.3.2. ヨーゼフ・ホフマンの建築専門クラス:他領域の工芸制作の実践・・・・・225      6.3.3. フランツ・チゼックの装飾形態学クラス:「感覚のリズム化の訓練」          6.3.3.1. 女性メンバーの作風とペッヒェ、ホフマンの作風の関係・・・・・228          6.3.3.2. チゼックの独自性と世紀転換期デザイン教育の継承・・・・・229          6.3.3.3. 教育成果:自由な感性の発露・・・・・231   6.4. 国家協力と経営努力      6.4.1. 中立国での販売促進運動・・・・・234      6.4.2. 「オーストリア的」工芸における民族的表現の欠如・・・・・237      6.4.3. ウィーン工房側の利点・・・・・239 7. 1920年代から終焉まで:装飾的デザインと変貌する国家、社会との距離   7.1. 新共和国のデザインの方向性をめぐる混乱と対立      7.1.1. オーストリア工作連盟の再出発:工芸活動の継続・・・・・241      7.1.2. <クンストシャウ1920>展の審美的世界・・・・・242      7.1.3. ホフマンとウィーン工房のオーストリア工作連盟脱退・・・・・247   7.2. 終戦直後のウィーン工房再建過程:ドイツへの接近と企業的性格の強化   7.3. 現代産業装飾芸術国際博覧会(1925)への参加      7.3.1. パリの「アール・デコ」・・・・・254      7.3.2. オーストリアの出展作品          7.3.2.1. オーストリア・パヴィリオン・・・・・255          7.3.2.2. グラン・パレ・・・・・257      7.3.3. ホフマンとウィーン工房に対する批判          7.3.3.1. ウィーン工房の展示状況・・・・・258          7.3.3.2. 商業面、芸術面での不首尾・・・・・259      7.3.4. 博覧会に見るオーストリアのアール・デコの特徴とウィーン工房の出展意義・・・・・262   7.4. ブランド・イメージとしての装飾      7.4.1. 1926年移行の提携企業の拡大:統一的企業イメージの必要性・・・・・264      7.4.2. 装飾的デザイン対する批判の高まり・・・・・265      7.4.3. 根本的な議論の不在・・・・・268   7.5. 最後の5年間:芸術性の維持と経営合理化      7.5.1. ウィーン工房設立25周年(1928)・・・・・271      7.5.2. 1928-1929年の経営業績の回復          7.5.2.1. 組織の中央集権化・・・・・273          7.5.2.2. 外国企業及び外国市場の重要性・・・・・274      7.5.3. ウィーン工房の終焉・・・・・276 【結論】 1. オーストリア近代デザイン運動の基盤:産業・芸術・国家の近代化・・・・・278 2. デザイン企業への転換:デザインの商品価値・・・・・280 3. 近代デザイン運動団体のブランドへの変容・・・・・281 4. ウィーン工房と「装飾」・・・・・283 5. ウィーン工房のデザイン史上の意義と今日性・・・・・283 【資料編】 図版 図版出典 年表 文献目録, 主指導教員 : 井口壽乃, text, application/pdf}, school = {埼玉大学}, title = {「ウィーン工房」研究 : 工芸改革運動からブランド企業誕生に至るオーストリア近代デザイン運動の変遷}, year = {2016}, yomi = {カクヤマ, トモコ} }