@article{oai:sucra.repo.nii.ac.jp:00017161, author = {福岡, 安則 and 黒坂, 愛衣}, journal = {日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要, Journal of Japanese & Asian Studies}, month = {}, note = {ある〈ハンセン病家族〉のライフストーリー。奥晴海(おく・はるみ)さんは、1946年、福岡県生まれ。彼女の母親と母方の祖母がハンセン病だった。  晴海さんの母親は、1943年に鹿児島県にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」へ入所。婚約者であった父親の手引きで園を脱走、そののち晴海さんが生まれている。1950年、母親が熊本県にある「菊池恵楓園」へ再収用され、このとき、ハンセン病ではなかった父親も一緒に入所させられている。4歳の晴海さんは、恵楓園入所者の子どもたちが預けられる未感染児童保育所「龍田寮」に入れられた。1954年春、龍田寮の新1年生になる子どもたちが、寮内の分校ではなく、市内の小学校への通学を希望したのにたいして、近隣住民から反対され阻止される事件が起きる(黒髪校事件)。このとき晴海さんは小学校2年生だった。  まもなく、晴海さんは、父母の故郷である奄美大島へと帰されるが、そこでの生活は苦しいものとなった。この病気にたいする差別は奄美大島でも厳しく、母親の妹は、身内にハンセン病者がいることを理由に離縁させられ、2人の子どもを抱えていた。その叔母のもとに、晴海さんは預けられたのである。貧しさの苦労、親族からの辛い仕打ち、「ガシュンチューヌ、クワンキャーヌ(患者の子どものくせに)」と蔑まれる扱いに、晴海さんは耐えなければならなかった。  晴海さんは、「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告勝訴(2001年5月)につらなる流れのなかで、母親の遺族としての提訴をしている。その準備の過程で、母親の入所歴を調べたり、龍田寮時代の保母と面会したり、母親の寮友たちと思い出話をしたり、自分以外の〈ハンセン病家族〉たちと出会ったりするなかで、幼少期の、奄美大島へ帰される以前のおぼろげとなった記憶を取り戻したという。本稿は、隔離政策によって奪われた肉親との関係や記憶を、晴海さんがふたたび取り戻していった物語である。  聞き取りは2010年7月、奄美市(旧名瀬市)内の「名瀬港湾センター宿泊所にておこなわれた。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、金沙織(キムサジク)。晴海さんは、聞き取り時点で63歳。また、2010年10月と2011年11月にも、奄美和光園内で補充聞き取りをおこなった。このときの語りは注に〈〉で記す。, text, application/pdf}, pages = {75--118}, title = {裁判のおかげで失われていた記憶が蘇った : あるハンセン病家族からの聞き取り}, volume = {9}, year = {2012}, yomi = {フクオカ, ヤスノリ and クロサカ, アイ} }