@article{oai:sucra.repo.nii.ac.jp:00017175, author = {福岡, 安則 and 黒坂, 愛衣}, journal = {日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要, Journal of Japanese & Asian Studies}, month = {}, note = {匿名希望Aさん(男性)は,1925(大正14)年,九州生まれ。1943(昭和18)年,星塚敬愛園に強制収容される。5ヵ月後に逃走。1948(昭和23)年,ふたたび強制収容。1943(昭和18)年に一緒に収容された父親と3人のきょうだいは,みんな敬愛園で亡くなった。2009(平成21)年11月の聞き取り時点で84歳。聞き手は,福岡安則と黒坂愛衣。2010(平成22)年2月,お部屋にお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充聞き取りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。  Aさんの語りでとくに印象に残ったことが,2点ある。ひとつは,父親とAさんを含むきょうだい4人が,1943(昭和18)年に強制収容されているが,そこに至るまでの「入所勧奨」の執拗さが際立っている点である。サーベルを提げて自転車に乗った巡査にせよ,白衣を着た星塚敬愛園からの医師と看護婦にせよ,これみよがしにAさん宅まで村の道をやってきている。Aさんの家に「癩患者」がいることを世間に知らしめるがごとくに。さらには,親戚の有力者を使って入所への圧力をかけて,Aさん一家から抗う力を奪っている。1948(昭和23)年の再収容のときには,入所に同意しなければ「進駐軍を連れて来る」という脅かしが切り札として使われている。  いまひとつは,Aさんは両足義足のうえに,失明してからは,身動きができなくなった。そして,ひとといっしょにお茶を飲んだりするのも不自由である。そのことが,Aさんをして,熊本地裁での違憲国賠訴訟の原告団に加わらなかった最大の理由となっていることである。わたしたちは,えてして,「原告 対 非原告」の境目を直線的に引いてしまいがちだが,両者はじつはもっと複雑に入り組んだものであったにちがいないということに,想いをいたす必要があるのではないかと思わせられた。, text, application/pdf}, pages = {211--230}, title = {わたしが亡くなると同時に,わたしの家は潰れる : ハンセン病療養所「星塚敬愛園」聞き取り}, volume = {10}, year = {2013}, yomi = {フクオカ, ヤスノリ and クロサカ, アイ} }